第19回地域美術研究部会会合報告
第19回目の会合は大分市美術館を会場に開催した。1999年の開館以来、大分市周辺の美術史研究を長く続けてきた同館の活動について、岡村暢哉氏と野田菜生子氏、学芸員のお二人に発表をお願いした。
岡村学芸員からは、「大分における日本画の展開と学校 ─大分県師範学校・大分県立大分中学校等の図画教師を軸に」と題し、1872年の学制公布以降に整備されていった、大分県における師範学校・中学校・高等学校の美術教師について発表をいただいた。
大分県は、1882年の第1回内国絵画共進会第三区(南北派)への出品者が、東京府137人に次ぐ117人になるなど、とくに南画が盛んな地域であった。その後、19世紀後半から20世紀前半にかけては、東京や京都に設立された画塾・学校で学んだのち、中央画壇で活躍した画家と、図画教師として帰郷する2パターンが現れるようになる。後者としては、中津出身の吉田嘉三郎のように、洋画家国沢新九郎が主宰する彰技堂で学び、中津市学校や福岡県尋常中学校修猷館で教鞭をとった例もあるが、その多くは日本画家が占めていた。帰郷しても大分では洋画の需要がほとんど無かったためであるという。そのため、臼杵出身の藤雅三は工部美術学校で学びながら、洋画を描くために渡米せざるを得なかった。
日本画家の図画教師として、早い例では、藤原美治郎(号:竹郷)が1898年に東京美術学校日本画科を卒業後、大分県師範学校に助教論として赴任。次いで、松本古村が1902年に東京美術学校図画講習科を卒業して県立大分中学校に赴任した。彼ら東京帰りの図画教師の影響によって、新しい日本画に取りくむ画家たちが現れるようになる。
その世代を代表するのが、首藤雨郊、高倉観崖、牧皎堂、福田平八郎である。京都市立美術工芸学校や京都市立絵画専門学校で学んだ彼らは、文展や帝展で活躍していき、大分県を代表する日本画家として育っていった。その動向については、大分市美術館で2022年に開催された特別展『生誕130年 福田平八郎と大分の日本画家たち ─首藤雨郊・高倉観崖・牧皎堂』図録にまとめられている。
洋画の美術教師は、大正期に入って定着していく。福岡県出身でフュウザン会の画家として知られる山下鉄之輔が県立大分中学校に赴任したのが1916年、岐阜県出身で版画家の武藤完一が大分県師範学校に赴任したのが1925年のことだった。山下については、本会合開催時に大分県立美術館で開催されていた「LINKS ─大分と、世界と。」展において、教え子の佐藤敬や髙山辰雄のほか、様々な文化人に多大な影響を与え、大分に芸術文化の種を蒔いた重要人物として位置づけられていた。
こうした流れのなかで、1921年に大分市で開催された第14回九州沖縄八県連合共進会美術展が、朝倉文夫を中心に大きな盛り上りをみせたのを機に、同年、県内の日本画・洋画家たちによる「大分県美術会」が結成、大分中心部の画廊や百貨店で様々な美術展覧会が開かれていくようになる。これが1937年の、総合美術団体「大分県美術協会」結成へと繋がり、太平洋戦争中の1943年まで活動を続けていった。
以上のような、地方から東京・京都へ学びに出て、教師として帰郷し地元の美術界に影響を与えるという流れは、大分にかぎらず、他地域でも見られるモデルケースとなるだろう。ただし、質疑応答では、九州全体では明治以降洋画が盛んだったのに、大分だけが洋画を学んでもそれを活かす場がなく、そのため帰郷しない画家がいたのはなぜなのか、という疑問が投げかけられており、大分美術の地域性を考えるうえで、重要な視点となりそうである。
野田学芸員からは、常設展で開催されていた特集「田能村竹田の書簡」について、その調査研究結果が報告された。
江戸後期を代表する文人画家である田能村竹田の書簡は、『大分県先哲叢書 田能村竹田資料集 書簡篇』(大分県教育委員会, 1992)に多く収載されているが、大分市美術館が所蔵する竹田書簡22通のうち14通が同書未収で、貴重なものである。本発表では、これらの書簡を、仕官時代の恩師である伊藤鏡河、弟子の帆足杏雨及びその家族、息子の田能村如仙、3つの宛先別に分析され、竹田の内面の変化が探られた。
伊藤鏡河に宛てられた竹田20~30代の書簡からは、師への信頼、孤独感・焦燥感から来る感情の吐露、文人としてのあり方を模索していった過程が、帆足杏雨宛の書簡からは、弟子の成長を見守るまなざしや文化的交流の記録が、田能村如仙に宛てられた竹田晩年の書簡からは、家族への切実な思いが伝わってくる。高潔・清廉な文人というイメージのある田能村竹田だが、紹介された書簡はいずれも人間味溢れる内容で、この文人画家の人間性について、再考させるものであった。
質疑応答後、最後に部会員で打ち合わせを行い、現在編集を進めている論文集『地域美術スタディーズ(仮)』について、今後の編集方針や助成金申請などについて協議がなされた。
岡村学芸員からは、「大分における日本画の展開と学校 ─大分県師範学校・大分県立大分中学校等の図画教師を軸に」と題し、1872年の学制公布以降に整備されていった、大分県における師範学校・中学校・高等学校の美術教師について発表をいただいた。

大分県は、1882年の第1回内国絵画共進会第三区(南北派)への出品者が、東京府137人に次ぐ117人になるなど、とくに南画が盛んな地域であった。その後、19世紀後半から20世紀前半にかけては、東京や京都に設立された画塾・学校で学んだのち、中央画壇で活躍した画家と、図画教師として帰郷する2パターンが現れるようになる。後者としては、中津出身の吉田嘉三郎のように、洋画家国沢新九郎が主宰する彰技堂で学び、中津市学校や福岡県尋常中学校修猷館で教鞭をとった例もあるが、その多くは日本画家が占めていた。帰郷しても大分では洋画の需要がほとんど無かったためであるという。そのため、臼杵出身の藤雅三は工部美術学校で学びながら、洋画を描くために渡米せざるを得なかった。
日本画家の図画教師として、早い例では、藤原美治郎(号:竹郷)が1898年に東京美術学校日本画科を卒業後、大分県師範学校に助教論として赴任。次いで、松本古村が1902年に東京美術学校図画講習科を卒業して県立大分中学校に赴任した。彼ら東京帰りの図画教師の影響によって、新しい日本画に取りくむ画家たちが現れるようになる。
その世代を代表するのが、首藤雨郊、高倉観崖、牧皎堂、福田平八郎である。京都市立美術工芸学校や京都市立絵画専門学校で学んだ彼らは、文展や帝展で活躍していき、大分県を代表する日本画家として育っていった。その動向については、大分市美術館で2022年に開催された特別展『生誕130年 福田平八郎と大分の日本画家たち ─首藤雨郊・高倉観崖・牧皎堂』図録にまとめられている。
洋画の美術教師は、大正期に入って定着していく。福岡県出身でフュウザン会の画家として知られる山下鉄之輔が県立大分中学校に赴任したのが1916年、岐阜県出身で版画家の武藤完一が大分県師範学校に赴任したのが1925年のことだった。山下については、本会合開催時に大分県立美術館で開催されていた「LINKS ─大分と、世界と。」展において、教え子の佐藤敬や髙山辰雄のほか、様々な文化人に多大な影響を与え、大分に芸術文化の種を蒔いた重要人物として位置づけられていた。
こうした流れのなかで、1921年に大分市で開催された第14回九州沖縄八県連合共進会美術展が、朝倉文夫を中心に大きな盛り上りをみせたのを機に、同年、県内の日本画・洋画家たちによる「大分県美術会」が結成、大分中心部の画廊や百貨店で様々な美術展覧会が開かれていくようになる。これが1937年の、総合美術団体「大分県美術協会」結成へと繋がり、太平洋戦争中の1943年まで活動を続けていった。
以上のような、地方から東京・京都へ学びに出て、教師として帰郷し地元の美術界に影響を与えるという流れは、大分にかぎらず、他地域でも見られるモデルケースとなるだろう。ただし、質疑応答では、九州全体では明治以降洋画が盛んだったのに、大分だけが洋画を学んでもそれを活かす場がなく、そのため帰郷しない画家がいたのはなぜなのか、という疑問が投げかけられており、大分美術の地域性を考えるうえで、重要な視点となりそうである。

野田学芸員からは、常設展で開催されていた特集「田能村竹田の書簡」について、その調査研究結果が報告された。
江戸後期を代表する文人画家である田能村竹田の書簡は、『大分県先哲叢書 田能村竹田資料集 書簡篇』(大分県教育委員会, 1992)に多く収載されているが、大分市美術館が所蔵する竹田書簡22通のうち14通が同書未収で、貴重なものである。本発表では、これらの書簡を、仕官時代の恩師である伊藤鏡河、弟子の帆足杏雨及びその家族、息子の田能村如仙、3つの宛先別に分析され、竹田の内面の変化が探られた。
伊藤鏡河に宛てられた竹田20~30代の書簡からは、師への信頼、孤独感・焦燥感から来る感情の吐露、文人としてのあり方を模索していった過程が、帆足杏雨宛の書簡からは、弟子の成長を見守るまなざしや文化的交流の記録が、田能村如仙に宛てられた竹田晩年の書簡からは、家族への切実な思いが伝わってくる。高潔・清廉な文人というイメージのある田能村竹田だが、紹介された書簡はいずれも人間味溢れる内容で、この文人画家の人間性について、再考させるものであった。
質疑応答後、最後に部会員で打ち合わせを行い、現在編集を進めている論文集『地域美術スタディーズ(仮)』について、今後の編集方針や助成金申請などについて協議がなされた。
(小杉放菴記念日光美術館 迫内祐司)
出席者:22名(部会員13名、オブザーバー5名、発表者2名、事務局2名)
部会長:速水 豊(三重県立美術館長)
幹事:増渕鏡子(福島県立美術館)
幹事:藤崎 綾(広島県立美術館)
幹事:迫内祐司(小杉放菴記念日光美術館)
幹事:重松知美(北九州市立美術館)
杉村浩哉(栃木市立美術館)
折井貴恵(川越市立美術館)
工藤香澄(横須賀美術館)
菅谷富夫(大阪中之島美術館)
井須圭太郎(久留米市美術館)
西本匡伸(福岡県立美術館)
川口佳子(長崎県美術館)
林田龍太(熊本県立美術館)
オブザーバー:
鴨木年泰(東京富士美術館)
平瀬礼太(愛知県美術館)
清水容子(呉市立美術館)
後小路雅弘(北九州市立美術館)
佐々木奈美子(久留米市美術館)
発表者:
岡村暢哉(大分市美術館)
野田菜生子(大分市美術館)
事務局:
山梨俊夫(全国美術館会議事務局長)
端山聡子(東京国立近代美術館)
幹事:増渕鏡子(福島県立美術館)
幹事:藤崎 綾(広島県立美術館)
幹事:迫内祐司(小杉放菴記念日光美術館)
幹事:重松知美(北九州市立美術館)
杉村浩哉(栃木市立美術館)
折井貴恵(川越市立美術館)
工藤香澄(横須賀美術館)
菅谷富夫(大阪中之島美術館)
井須圭太郎(久留米市美術館)
西本匡伸(福岡県立美術館)
川口佳子(長崎県美術館)
林田龍太(熊本県立美術館)
オブザーバー:
鴨木年泰(東京富士美術館)
平瀬礼太(愛知県美術館)
清水容子(呉市立美術館)
後小路雅弘(北九州市立美術館)
佐々木奈美子(久留米市美術館)
発表者:
岡村暢哉(大分市美術館)
野田菜生子(大分市美術館)
事務局:
山梨俊夫(全国美術館会議事務局長)
端山聡子(東京国立近代美術館)